NY生活が終わりました。
たった4ヶ月間でしたが、一瞬も休むことなく動く街や人や目の前に迫る状況や、
それに反応する自分の気持ちひとつひとつを受け止めて、噛み砕いて、消化することに忙しく、私にとってはあっという間でありながらもとても長く感じるという不思議な日々でした。
外から見れば、私はきっと何も変わっていません。
英語力も劇的に伸びたわけではないし、
事前にあれもしようこれもしようと計画していたことの半分もこなせなかった私は、
きっとみなさんから見ればただ4ヶ月間ぶらぶらしていただけのひとです。
実際、働きざかりの自分の年齢でこんなことしてていいのかと思うこともたくさんありました。
本来、こんな経験はもっと早い段階、たとえば学生のときとか、少なくても20代前半で済ませておくべきことなんじゃなかったのかと。
それでも。
それでもです。
やっぱり私は「たくさん学んだし、たくさん考えて、それは自分の糧になった」と言いたい。
人はそれはもう驚くほど違うということ。
それでもみんな、家族や友人とブランチをしてるときの楽しそうな笑顔やクリスマスイブの教会で子供たちの劇を見守るときのしあわせそうな笑顔は一緒だった。
自分はまだ乗り越えてないことがたくさんあるんだということ。
日本ではただ自分の日常が固定化されてきて、何となく色んなことをうまくこなせる気になっていただけだった。
私たちは全然自由なんかじゃないということ。
誰か―国や、社会や、慣習―につくられたたくさんの規制のなかで暮らしていて、それに気付くことすらなく日々を過ごしているだけなのだということ。ときには自らすすんでその規制のなかにさらに小さな囲いをして生きているのだということ。
そしてそれでも、私たちは自分たちが思っている以上には自由なんだということ。
実際、年齢や結婚してることなどから何となく無理だと思っていた一人での海外滞在も別にできないことではなかったし、これまでの自分の想像の範囲を超えた生活をしているひとたち、例えば命がけで国境を越えてきたという人、NYが好きで好きで、インターンを探してこちらに来たという人、そんな人たちにたくさん出逢って、私のスコトーマもたくさんはずれた。
どうして私たちは小さな囲いをつくってそのなかに自分を閉じ込めてしまうんだろう。
したいことがあるなら、すればいい。
会いたい人がいるなら、会いに行けばいい。
続けることが苦しいなら、やめてしまえばいい。
それで起こることすべてはもちろん自分の責任だけど、でも全部、できないことじゃない。それくらいの自由を私たちは持っている。
NYで生活してみて思ったいちばんのことは、それ。
私たちは全然自由じゃない世界に生きてる、けど、それでも自分たちが思っている以上にはとても自由なのだということ。